トルコ軍艦「エルトゥールル号」の航跡 | 日本・トルコ協会 | The Japan-Turkey Society

大正15(1926)年に「日土協会」として設立された民間の非営利団体です。日本とトルコの友好関係増進のため、様々な活動を行っています。

トルコ軍艦「エルトゥールル号」の航跡

トルコ軍艦「エルトゥールル号」の航跡
~130年の節目に考える日本とトルコとの希有な二国間関係〜
福本 出/写真・文
(株)石川製作所東京研究所長、元海将

トルコ軍艦「エルトゥールル号」の航跡
~130年の節目に考える日本とトルコとの希有な二国間関係〜
福本 出/写真・文
(株)石川製作所東京研究所長、元海将

在りし日のエルトゥールル号。1890年9月16日、熊野灘で機関故障のため航行不能となり、岩礁に激突大破した

在りし日のエルトゥールル号。1890年9月16日、熊野灘で機関故障のため航行不能となり、岩礁に激突大破した

 

エルトゥールル号事件

在りし日のエルトゥールル号。1890年9月16日、熊野灘で機関故障のため航行不能となり、岩礁に激突大破した

在りし日のエルトゥールル号。1890年9月16日、熊野灘で機関故障のため航行不能となり、岩礁に激突大破した

 1890年(明治23年)9月16日の夜半、オスマントルコ帝国海軍の木造機帆・装甲フリゲート艦「エルトゥールル」が折からの荒天航行中、熊野灘で機関故障のため航行不能となり、紀伊半島南端、大島の断崖絶壁下に広がる船甲羅と呼ばれる岩礁に激突大破した。この事故により将兵600余名が遭難、司令官・艦長を含む587名が殉職した。大島島民による献身的な救助及び救命活動により、かろうじて69名が命をとりとめた。嵐の中も捜索が続けられ、発見収容された遺体は事故現場を見下ろす樫野崎の高台に埋葬された。異国語も解さず、異邦人の顔も見たことがない辺境の庶民が示した人道博愛の行為であった。
 トルコが“世界一”の親日国となる端緒として知られる「エルトゥールル号事件」である。
 電気通信網が整っていない時代に、この事故発生がいち早く中央政府に報告できた理由は、樫野崎灯台の存在にあった。樫野崎灯台は、1866年(慶應2年)に米英仏蘭の4カ国との間で結ばれた「江戸条約」に基づき建設することとなった灯台8箇所のひとつとして、1870年7月に点灯した日本最古の洋式灯台である。熊野灘と呼ばれる紀伊半島沖は、世界最大級の海流・黒潮と、紀伊水道を常時吹き抜ける風とが直交してできる三角波が一年をとおして発生するため、海の難所として古くから船乗りに恐れられてきた。樫野崎が日本で最初の灯台建設場所として選ばれた理由が容易に理解できる。 
 大島村長からの事故発生報告は、灯台に設備された無線電信により、県庁を通じ明治政府に宛ててただちに打電された。明治政府の対応は早く、生存者は神戸の特設病院に収容され、治療と看護を受けた。また新聞各紙は、事故報道とともに「日本が東洋の野蛮国ではなく、義に厚い文化国家であることを示すことにもなる」との社説を掲載し、犠牲者とその家族のための義援金を募る動きもおきた。義を感じ街頭演説等を通じて個人で集めた約
5000円(今の1億円に相当)の義援金をトルコに届けた山田寅次郎(当時24歳)という若者もいた。彼は後に続く日土関係に大きな役割を果たすことになる。

マルマラ海に面したトルコ海軍最大のギョルジュク海軍基地も地震の直撃を受け、基地施設や海軍工廠が被害を受けるとともに、多くの将兵が被災、将官も含め死者も出た。海自でも義援金が集められた。当時在トルコ日本大使館防衛駐在官だった筆者(左)は、その小切手を海軍司令官イルハミ・エルディル大将に手わたした。

マルマラ海に面したトルコ海軍最大のギョルジュク海軍基地も地震の直撃を受け、基地施設や海軍工廠が被害を受けるとともに、多くの将兵が被災、将官も含め死者も出た。海自でも義援金が集められた。当時在トルコ日本大使館防衛駐在官だった筆者(左)は、その小切手を海軍司令官イルハミ・エルディル大将に手わたした。

マルマラ海に面したトルコ海軍最大のギョルジュク海軍基地も地震の直撃を受け、基地施設や海軍工廠が被害を受けるとともに、多くの将兵が被災、将官も含め死者も出た。海自でも義援金が集められた。当時在トルコ日本大使館防衛駐在官だった筆者(左)は、その小切手を海軍司令官イルハミ・エルディル大将に手わたした。

マルマラ海に面したトルコ海軍最大のギョルジュク海軍基地も地震の直撃を受け、基地施設や海軍工廠が被害を受けるとともに、多くの将兵が被災、将官も含め死者も出た。海自でも義援金が集められた。当時在トルコ日本大使館防衛駐在官だった筆者(左)は、その小切手を海軍司令官イルハミ・エルディル大将に手わたした。

 生存者は帝国海軍軍艦「金剛」と「比叡」によりイスタンブールまで送り届けられた。海兵17期生の遠洋航海を兼ねたこの航海には秋山眞之少尉候補生がおり、司馬遼太郎の『坂の上の雲』にも艦上のトルコ将兵や秋山候補生の様子が描かれている。
 そもそも「エルトゥールル号」が遠路来日した理由を紐解けば、その4年前の1886年(明治19年)に欧州各国を歴訪した小松宮彰仁親王がその一環としてオスマントルコ帝国を訪問し、明治天皇の親書と勲章を時の皇帝アブドゥルハミト2世に奉呈したことへの返礼であった。しかし儀礼目的だけで、開国して20年余りの新興国に、大帝国のトルコが軍艦を仕立てて特使を派遣したのだろうか。
 オスマントルコは13世紀末にアナトリアと呼ばれる小アジア半島に興り、キリスト教諸国と対峙しつつ次第に版図を広げ、東ヨーロッパから中東・北アフリカを征する大帝国となり、やがて第1次世界大戦を経て滅亡するまで約700年にわたり栄えた帝国である。そのオスマントルコが都合12回・約400年にわたり戦いを繰り返した北の宿敵がロシア帝国であった。エルトゥールル号が日本に派遣されたのは、バルカン諸国の領有をめぐるロシアとの戦争で敗戦したばかりの時期だった。不凍港を求めるロシアの南下政策に警戒を強めていた日本と手を組み、大陸の東西両端でロシアを囲むことは、衰退期に入ったトルコにとっても戦略的意義が大いにあったと考えられる。
 1904年(明治37年)日露戦争が勃発し、ロシアは極東艦隊増強のためバルチック艦隊を派遣した。この艦隊に合流する黒海艦隊がボスポラス海峡を通峡した際、編成等の細部を日本に報告したのは、義援金を届けたあとも貿易業を営みつつイスタンブールに滞在していた山田寅次郎だった。トルコに大使館が置かれる以前のことだ。
新興小国日本がロシアに戦勝したとき、トルコでは我がことのように祝うお祭り騒ぎが起きたという。のちに共和国となり、庶民も苗字を持つことになったとき、「TOGO」を名乗った者がいたほどである。

 

親日だった初代大統領アタテュルク

 国民軍を率いてトルコを滅亡の危機から救ったムスタファ・ケマル将軍は、1923年の共和国成立と同時に初代大統領に就任、国民会議(国会)から“トルコの父(アタテュルク)”の称号を得るカリスマ的リーダーとなった。アタテュルク大統領は明治天皇を崇拝し、改革のお手本としたのが、明治維新後の近代化政策であったともいわれている。
 先にふれた山田寅次郎は20年あまりトルコに滞在し、帰国後大阪で製紙業に携わるかたわら、みずから設立した日本トルコ貿易協会で中心的役割を果たし、1929年(昭和4年)にはエルトゥールル号乗員の慰霊碑を大島樫野崎に建立した。翌年6月3日、昭和天皇が国内巡幸の途次、この慰霊碑を参拝された。当時の慰霊碑は身の丈ほどの小さなものであったが、この報告を受けたアタチュルク大統領が慰霊碑の改修を直命し、トルコ政府の資金で立て替えられた。旧慰霊碑を埋め込み、中心に旭日旗とトルコ国旗が交差するエンブレムを擁する現在の慰霊碑である。

 
朝鮮戦争に従軍したトルコ将兵が見た日本 
 日本とトルコは第二次世界大戦でふたたび敵対関係となるが、両国間の戦闘は起きていない。戦後まもなく発生した朝鮮戦争で国連軍に参加したトルコ軍は、米英に次いで多い千人余りの戦死者を出す勇猛果敢な戦いぶりを見せた。停戦までに派遣されたトルコ将兵は延べ5万人に及ぶが、その多くは徴兵された一般市民だった。彼らが日本の国連軍(米軍)基地を経由した際に目にしたのは、爆撃により焼土となり、傷痍軍人や飢えた市民が物乞いと化した敗戦国だった。
 その後日本が瞬く間に復興し奇跡的な経済成長をとげ、トルコ市民の身の回りにも日本製の自動車や家電、カメラなどがあふれるようになった。朝鮮戦争経験者は従軍時に見た貧しく荒廃した日本からは信じられない発展ぶりに、実感をもって驚きと尊敬の念を抱いたことは想像に難くない。

 

トルコからの救いの翼

 時代は下って1980年(昭和55年)、イラン・イラク戦争が勃発した。イスラム革命(1979年)後は減少していたものの、油田プラント事業関係の日本人ビジネスマンとその家族が多数イランに国内に駐在していた。相互の都市爆撃が断続的に行われ慢性化するなか、1985年(昭和60年)3月17日、イラクのフセイン大統領は突如、48時間の猶予以降にイラン上空を飛行する航空機は民間機を含め無差別に撃墜するとの宣言を行った。外国人が母国の民間機や軍用機で次々と国外離脱する一方、日本の民間航空は労組が危険地域への飛行を拒否し、また当時は自衛隊機を派遣できるような政治状況になかったため、日本政府として打つ手がなく、首都テヘランには日本人のみが取り残された。自国民の救出が手一杯で日本に協力する国はなく、無差別攻撃開始までのカウントダウンが始まる土壇場になって、トルコ政府の指示によりトルコ航空最終便2機に日本人215名全員分の座席を融通するとの連絡が入った。驚くべきことに、この機に搭乗予定だったトルコ人は日本人に席を譲り、陸路自国に向け脱出するという。攻撃開始まで1時間余りのことだった。
 トルコがなぜここまでして日本人に救いの手をさしのべたのか。にわかに信じがたいほどの厚意に感謝しつつも、「日本からの経済支援を期待したもくろみではないか」との新聞論評もみられた。当時の駐日トルコ大使は、「そのような論評は残念なことだ。友邦として人道上当然のことをしたまで」と反論し、次のようにつけ加えた。
「トルコは百年の恩を忘れない国です」
 それは、約百年前に起きた「エルトゥールル号」遭難事故に際し、当時の日本庶民や政府・海軍が示した友情と博愛のことだとすぐに理解できる日本人は、残念ながらほとんどいなかった。
 我が国で流布する「エルトゥールル号」の美談はだいたいここまでだ。しかし日本とトルコの海をつなぐ物語はこれで終わりではない。

 

ブルーフェニックス作戦

ハイダル・パシャで仮設住宅のコンテナを陸揚げする「ぶんご」。20日間無寄港で航海を続け、驚異的な速さで現地に到着した

ハイダル・パシャで仮設住宅のコンテナを陸揚げする「ぶんご」。20日間無寄港で航海を続け、驚異的な速さで現地に到着した

ハイダル・パシャで仮設住宅のコンテナを陸揚げする「ぶんご」。20日間無寄港で航海を続け、驚異的な速さで現地に到着した

ハイダル・パシャで仮設住宅のコンテナを陸揚げする「ぶんご」。20日間無寄港で航海を続け、驚異的な速さで現地に到着した

 1998年(平成10年)6月、わたしは和歌山県出身の海上自衛官として運命的なものを感じつつ、在トルコ日本国大使館防衛駐在官を拝命した。翌年の8月17日午前3時2分、トルコ北西部のイズミット付近を震源にM7.6の地震が発生し、死者約1万7千人、負傷者約4万4千人、数万の住宅が崩壊し約60万人が家を失う大惨事が発生した。日本政府はただちに国際緊急援助隊派遣と緊急円借款を決定し、さらに仮設住宅が大量に不足することが判明するや、阪神淡路大震災の被災者が使用していた仮設住宅を無償提供することを決定、その一部を自衛艦により急送することとなった。その命を受けた第1掃海隊群司令率いる掃海母艦「ぶんご」、輸送艦「おおすみ」及び補給艦「ときわ」の3艦は、被災地復興の願いを込め「ブルーフェニックス」作戦と命名し神戸を出港、出しうる最大速力をもって記録的な無寄港連続航海により、20日あまりという驚異的な早さでイスタンブールに到着した。3艦はアジア側のハイダルパシャ港にコンテナ陸揚げ後、ドルマバフチェ宮殿沖の特別錨地に投錨した。そこはまさに100年余り前に「金剛」と「比叡」が碇泊した泊地だった。「ぶんご」等3艦の救援をトルコのメディアは「エルトゥールル号事件」のエピソードとともに報じた。押し寄せた市民は両国国旗を振りながら「トルコはあなた方と共にいることを誇りに思う」との大合唱で出迎えた。トルコには「困難に直面したときにそばにいるのが真の友人である」という諺がある。1千万の市民は、宮殿沖に旭日旗をはためかせる自衛艦を見て、日本からの支援を思ったことだろう。この作戦成功の陰には、トルコ海軍の協力も欠かせなかった。 
 両国海軍が培ってきたもうひとつの「海の友情」であり、軍艦だからこそなし得た“Show the Flag”であった。
 

「ぶんご」等3艦の入港を出迎えた市民、子どもたち。両国国旗を振りながら大声でないかを大合唱していた。トルコ語通訳に尋ねると「トルコはあなた方と共にいることを誇りに思う」という意味だという。指揮官・隊員たちはそれを知り、目頭が熱くなるとともに、この任務に従事できてよかったと、それまでの苦労が一瞬にして吹き飛んだ

「ぶんご」等3艦の入港を出迎えた市民、子どもたち。両国国旗を振りながら大声でないかを大合唱していた。トルコ語通訳に尋ねると「トルコはあなた方と共にいることを誇りに思う」という意味だという。指揮官・隊員たちはそれを知り、目頭が熱くなるとともに、この任務に従事できてよかったと、それまでの苦労が一瞬にして吹き飛んだ

「ぶんご」等3艦の入港を出迎えた市民、子どもたち。両国国旗を振りながら大声でないかを大合唱していた。トルコ語通訳に尋ねると「トルコはあなた方と共にいることを誇りに思う」という意味だという。指揮官・隊員たちはそれを知り、目頭が熱くなるとともに、この任務に従事できてよかったと、それまでの苦労が一瞬にして吹き飛んだ

「ぶんご」等3艦の入港を出迎えた市民、子どもたち。両国国旗を振りながら大声でないかを大合唱していた。トルコ語通訳に尋ねると「トルコはあなた方と共にいることを誇りに思う」という意味だという。指揮官・隊員たちはそれを知り、目頭が熱くなるとともに、この任務に従事できてよかったと、それまでの苦労が一瞬にして吹き飛んだ

 

「エルトゥールル号」の遭難から130年

大島樫野埼に建立されたトルコ軍艦遭難慰霊碑。トルコ政府の資金で立て替えられ、中心に旭日旗とトルコ国旗が交差するエンブレムが配されている

大島樫野埼に建立されたトルコ軍艦遭難慰霊碑。トルコ政府の資金で立て替えられ、中心に旭日旗とトルコ国旗が交差するエンブレムが配されている

 「エルトゥールル号」の遭難から130年を迎える今年、昭和天皇が行幸された6月3日を期し、日土合同の慰霊祭が挙行される予定である。また練習艦隊は今年、大島と同形状の慰霊碑があるトルコ地中海側の姉妹都市メルシン市への寄港も検討されていると聞く。(筆者注:新型コロナウイルス感染症の世界的な流行の影響により、慰霊祭の延期が決定され、また練習艦隊がメルシン市寄港についても未だ確定できない状況にある。)
経済関係も、人的交流も、決して盛んではないにもかかわらず連綿と続く日本・トルコ間の世界にも希有な2国関係を、「エルトゥールル号事件」だけを理由に説明するのはドラマチックに過ぎる。そこには永年にわたり両国間で皇族や官民あわせて重層的な役割を果たしてきた人々がおり、中でも海軍・海上自衛隊が果たしてきた役割は大きい。
 そのうえに、いまも異国の地に眠るトルコ人将兵たちが、永遠の外交使節として両国間の海を繋ぎ、友好を見守っているように思えてならない。

 

 

*本稿は「J-SHIPS ジェイ・シップス 2020年4月号(vol.91)」(イカロス出版、2020年3月11日発行)に掲載されたものを、許可を得て本HP用に一部加筆修正し転載したものです。

 

 

大島樫野埼に建立されたトルコ軍艦遭難慰霊碑。トルコ政府の資金で立て替えられ、中心に旭日旗とトルコ国旗が交差するエンブレムが配されている

大島樫野埼に建立されたトルコ軍艦遭難慰霊碑。トルコ政府の資金で立て替えられ、中心に旭日旗とトルコ国旗が交差するエンブレムが配されている

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